時間短縮ということのおそろしさ

物事が進化して来ると、人は本来持っている(かもしれない)、「許す」というキャパシティーをどんどんと狭めていると思います。
日々忙しく過ごす中で、最近痛切に感じています。
例えば車に乗っているとき。

前の車のカーブが遅いと舌打ちをしてしまう。
もちろん、法定速度をより遵守しているのは前の車にもかかわらず。
ネットのアクセスが遅いとき。
無駄にダブルクリックを繰り返し、画面が固まり舌打ちする。
駅のホームを歩いているとき。
前を歩いていた人がホームを間違えたらしく、突然方向転換をしてせいでぶつかりそうになり、心の中で舌打ちをする。
便利になるということは、時間が短縮できるということです。
でも、時間が短縮できることに慣れすぎてしまって、それができないと本当にいらいらしてしまうのです。
世の中が便利になると、人間はどうやらせっかちになるようです。
ネットが普及して、疑問に思ったことがあるとその場ですぐ調べられるようになったから、答えがすぐ出ないことも許せなくなっている気がします。
だから、人と話している時にも相手の返答が遅いとき、待ってあげることができない時がある。
何かを許すということは、心にゆとりがないと絶対にできない行為のようです。
たまには、辞書を引っ張り出してきて自分で答えを探しながら、となりにあった言葉の意味まで覚えてしまう、くらいの心の余裕を持ちたいものですね。
そのくらいでないと、せっかく短縮して得た時間の積み重ねも結局いらいらするだけで、そのまま人生が終わっていくような気がする…と、すでに時短という言葉に侵されつつある自分を省みつつ、にわかにおそろしくなるのです。

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