学校で大切なこと

学業・学校というのは日本では当たり前のものだ。
小学校から中学校までは義務教育、その後は高等学校・専門学校・大学などたくさんの学ぶ機会が有る。
就職をするにあたっては、高等学校卒業が必須条件であったり、大学卒業しているかどうかで収入などにも影響してくる。

しかし、当たり前のようにみんなが「しなければいけないこと」と思っている学業とは何なのか。
何のために勉強をしているのか。
実際に普通の生活を送る分には、三角形の面積を求めたり、元素記号を使ったりする機会はそんなに頻繁にないだろう。
専門職に就いたりした場合には別だ。
それでも学校で学んだことを全て活かしている人はいないだろう。
勉強が無駄だというわけではない。
小学校レベルの内容などは最低限必要だろう。
しかし、教科書や授業で教えてくれない「世間に出てから必要なスキル」などのほうがずっと役に立つだろう。
仕事が出来る人や成功している人が必ずしも、勉強ができたというわけではない。
中学卒業から働いて社会人の経験を早くから積み、会社を起こし成功した人だっている。
有名大学を出たからといって、希望通りの就職が出来なかったり、就職してもくじけてしまう人もいる。
では、どうして勉強をするのだろう。
中には勉強が好きだという人もいる。
確かに勉強はできるようになると楽しくなっていく。
しかし勉強が嫌いだ・いやだという人も勉強をする。
勉強ができるかできないかによって、優劣や上下をつけたがる。
ただ勉強という1つの物差しで、その人を判断できるのだろうか。
勉強を出来なくたって1人1人に長所も短所もありそれが個性だ。
学業だけではその人のほんの一角しか測れない。
それでも私たちは勉強というのを強いられる。
テストや成績の結果で順位や優劣をつける。
それはどれだけ難しい計算式が解けるか、どれだけ歴史や地理について覚えているか、それが大事なのではない。
決められた期間に決められた物事をどれくらいこなせるのかという、そこが大事なのだと思う。
忍耐や努力や集中力、そういったところをみているのだと私は思う。
成績がどんな結果の人であれ、その人にしかない個性がある。
それを伸ばしていければ1番いいだろう。
でも学校の先生が1人1人の個性の見つけ出し、伸ばしていくには寝る間を惜しんで一日が24時間を越えても無理なことだ。
学校に行くことは大事だ。
勉強のためでなくてもいい。
勉強が出来る出来ないだけでなく、社会性であったり人との関係というのを学習できる場だ。
友だちと仲良くなるのに勉強ができるかどうかは関係ない。
休み時間に友だちとの他愛無い会話や、喧嘩をして傷つくこと傷つけてしまうことを知らぬ間に覚えて行く。
学校のルールを守らずに先生に怒られたり、時間を守るという習慣をつけたり。
そういった見えないものを学べる場でもある。
勉強をしていく中で将来のやりたい仕事が漠然を見えてくる人もいる。
仕事では無くても趣味が見つかる人もいる。
勉強をしなくていいわけではない、しかし勉強をするということだけに捕らわれないでほしい。
ある程度よりプラスαくらいの知識があって困ることはない。
勉強ができれば、進学や就職を探すときに幅も広がるだろう。
しかし、勉強がよく出来る人というのはその広がった範囲の中から選ぼうとして結局選択肢が増えても、増えた選択肢しか見えなくなってしまうことが多いのは非常にもったいない。
勉強ができるんだから、いい学校に進むというのが当たり前になっているが、もしかしたら自分の学力よりも下のランクの学校にやりたいことがあって自分を伸ばせるチャンスがある可能性も十分にある。
学力という枠に捕らわれずに、自分の進む道を決めて欲しい。
学校に通っている期間というのは感受性が豊かな時期であり、その頃にしか味わえない楽しい経験もたくさんある。
それはどんなにお金を出しても、どんなに偉い人と言われる人になっても、二度と体験できない貴重な時間だ。
「自分」というものを作り出し、少ずつアイデンティティというものを構成していく時期だ。
学ぶとは勉強だけではない。
勉強よりも大切な、教科書にも参考書にものっていない大切なことがるということを忘れないでほしい。

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