子と母と娘
私は二十歳になる二日前に母になった。
子供が親になってしまったのだ。
私にとって妊娠・出産・育児の全てが予想以上に大変なものだった。
「なるようになる」が口癖なのだが、どうにもならないことが多かった。
それだけ一つの命を産んで育てるのは、責任が大きかった。
妊娠期間は以外と短くて、お腹が大きくなるのは分かるが、体全体にお肉がつくのはやめてほしかった。
実際に妊娠中のつわりはつらかったが、それさえ過ぎてしまえば大丈夫だった。
ただ妊娠後期になるとお腹が重くなり、立っているのも辛くなり、過度の眠気が襲ってくる。
出産ギリギリまで働く人もいるが、私はあんなに体がだるい状態でも頑張ってお仕事をできる人を尊敬する。
出産は大したことはない。
事前に本で読んだりして、とてつもなく痛いと聞いていたが、出産よりも陣痛のほうが嫌だ。
陣痛はお腹が痛くなるものだと思っていたが、私は腰にきた。
めっちゃ痛い偏頭痛が、10倍20倍30倍、、、100倍という感じだ。
気がついたら分娩台の上にいて、立ち会い出産の予定はなかったのに、なぜかお母さんがいて応援してくれていた。
実際、「ひっひっふー」なんてできない。
それどころじゃない。
私は近年稀に見る暴れるママだったそうです。
それなのにとても安産だと言われた。
あんなに痛かったのに安産なのか。
お母さんも安産だったので、どうやら安産家系らしいのでよかった。
ちなみ親が出産に立ち会うのは、あまりよくないらしい。
出産の瞬間に親がいると、親になりきれず子供のままになってしまうらしい。
でもそうは言われても、やはりお母さんがいてくれて心強かった気がするし、孫を一番に見せられて嬉しかった。
陣痛と出産はとっても辛かったのに、生まれてきてくれると一瞬で忘れるのは本当だった。
産後の痛みよりも子供を見たい気持ちでたくさん歩いて、看護婦さんに怒られたりもした。
私は平均とかそういったものを気にしない。
たとえば、そろそろハイハイができる頃だとか、掴まり立ちができてもいい頃だとか、私の親はやたらと気にした。
私はそのうちできるようになるんだからと、考え方が違っていた。
確か一人座りかハイハイが標準よりも遅かった記憶がある。
親は一生懸命、しかし私は可愛いなぁというだけ。
もう1歳過ぎくらいの頃からは、いろんなことが標準より早く発育もよかった。
私は標準などどうでもよかったから、自然に出来るようになるだけと思っていたら、いろんなことが標準以上になっていた。
幼稚園児が英語を覚えたり、漢字を教えてくれとせがんできて小学生用のドリルをやっている。
私の妹が大学の勉強のついでに、子供がシェイクスピアのハムレットの一節を教わっていた。
それをいきなり言われた言われた時は、なんの呪文かと思ってしまった。
勉強とか頑張って欲しいなんて思ってないのに、自分からやりたいと言われては仕方ない。
いつだっただろうか。
なにか辛いことか何かがあって、でも笑顔で振舞うようにしていた。
なのに子供の口から「どうしてママ、泣きそうなの?」と聞かれた。
何も返す言葉がなかったのだが、座っていた私のところに歩いてきて、ぎゅーっと抱きしめて
「大丈夫だよ、ママには○○がいるよ、泣かないで。
ママが泣いたら○○も悲しい」
若干違うけど、つたない言葉が心に響いた。
嬉しかった。
泣くの我慢してたのに、そのセリフが嬉しくてないちゃったじゃないか。
私が人としてどんなでも、親としてどんなでも、子供にとっては唯一無二のママなのだ。
私が親になっても親にとって私は子供だ。
それは私と子供にも当てはまる。
残念だけど、私は立派なママじゃない。
だけどかけがえのない経験や感動を子供はくれている。
生意気になりながらも、これからも私たちにたくさんの楽しみをくれる。
子供は気付いていないけれど、ものすごく大切で影響力のある存在なんだ。
それを私は見守って、力になる時は力になる、たくさん笑顔にする。
どんなにかけがえのない存在でも、役に立ちたくてもできる事は限られてる。
何よりも大切な守らなきゃいけないって、もどかしいね。