生きる・生きたい・生かされる
人は「生まれる」。
母が「生む」私が「生まれる」、「生まれる」は受動態だ。
この世に出た瞬間から受け身なのだ。
生きたいかどうかの選択肢はない。
卵子と数多くある精子の中から生まれてきたのだから、顕微鏡で見なければ分からない大きさのときから本能として「生きたい」というのがあるのだろうか。
そんなに小さな精子が一生懸命、卵子に入ろうとするというところから分からない。
しかし確立で考えると「自分」という存在が生きているということの確立というのは奇跡のようなものだ。
生まれてきて生きているというのを確立で考えると、人は全員奇跡だ。
もし過去に戻れるならいつに戻りたい?
そんなさりげなく会話でありそうな質問を深く考えたころはあるだろうか。
私が本気で考えると、口に出しにくい答えが浮かんでしまう。
なぜだろう。
素直に答えると、生まれてこないところまで戻してほしい。
こんなふうに思っていることを親が知ったら、間違いなく悲しませてしまう。
私は恵まれた環境に生まれ、何不自由ない生活を送らせてくれた親にすごく感謝している。
それでも親のことを考えなければ、正直私は生まれてきたくなかった。
もし「感情」というものが無くて済むなら、生きていてもまあいいかなとは思うが。
それでも生まれてきたからには、必然的に生きていかなければならない。
しかし自ら生きることを破棄してしまう、逃げてしまう人がいる。
私はそれを悪い事とは思わない。
それだけの追い詰められ、もう他に選択肢がなくなってしまう場合もあるだろう。
だから否定はしない。
でも若い子がそうなってしまった場合に、まず親御さんがいたたまれない気持ちになる。
親より先に逝くのは一番の親不孝。
若い子はまだ見えている世界が狭い、その中でその道を選ぶしかなかった。
もう少し大人になっていれば、違う逃げ道を見つけられたかもしれない。
生きているとツライ時が必ずやってくる。
立ち向かわなければいけない時もあるし、本当に限界になら逃げてもいいと思う。
逃げ場がるというのは、いいことだ。
心に余裕もできる。
なぜ生きているのか、その答えを知っている人はいるのだろうか。
人によっては見つけている人もいるだろうが、正しい答えなんかあるのだろうか。
答えも理由も見つけるつもりもない。
気が付いたらいつか見つかっているのかもしれない。
そしたら毎日が変わるのだろうか。
とりあえずなんで生きてるのかはよく分からないけど、両親に感謝の言葉を伝えられるような、そんな日がいつかくることを望んでいる。